ようこそ。アメリカ移住者Yascoのブログへ! 兵庫県出身の関西人。1999年大卒で超就職氷河期世代。日本での人生に見切りをつけ、2003年9月に企業インターンとして単身渡米。2003年−2004年はフロリダ、2004年からミシガンに在住。その後、数々の就労ビザを繋いで、2012年にグリーンカード取得。2017年7月に米国市民権取得により日本国籍喪失。よって、現在は米国籍のみを持つ、日系米国人1世と相成りました。波乱万丈な元日本人の人生を日本人の皆様に少しでもご紹介できればと思います。よろしくお願いいたします。

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2019年10月18日金曜日

アメリカ社会で働くということ  アメリカ 移住 方法の解説

前回は私がどのように米国移住したかや取得した就労ビザについてのお話をしましたが、今回は、アメリカでの私の社会人経験に基づいて、アメリカのビジネス社会で働く、ということについて語りたいと思います。



私は現時点で在米社会人歴が17年目になりました。この間の約16年は普通の企業で会社員、ここ1年は在宅自営業で翻訳業をしています。

渡米直後からマイアミでの半年間はインターンでしたが、ミシガンに引越ししてきた2004年3月からはずっと様々な企業で正社員として働いていました。自営業になるまで、転職は計6回です。

まず、ミシガンにてアメリカで初めて正社員として働き始めた時に気付いた事は、”アメリカ人の朝は早い”という事です。ここは小さな日系企業でしたが、私の職場に日本人は私を含めて8人中3人でした。そのうち一人は日本からの駐在員でした。残りは全員アメリカ人でした。そのうちの一人は朝7時には職場へやって来てオフィスを開けて4時には帰宅という感じでした。朝9時始まりが日本では普通だったので、よくそんなに朝早くから出勤できるな、と感心していました。でも、次の職場では朝6時から働いている人もいたので、アメリカでは特別な話ではありません。シフト制のサービス業とか工場勤務ならこれが通常ですが、どちらも普通のオフィス勤務職です。そうです、意外とアメリカ人は時間にきちっとしている人が多いし、勤勉なんですね。日本にいる時は、何となく”日本人よりも適当に働いているんだろう”、なんて思っていました。とんだ勘違いだったと言うことが現地で体験してわかったわけです。もちろん、ほぼ毎日遅刻してくる人もいますが、そういう人は少数派です。それにそういう人はいずれクビになります。

そして、何と言ってもびっくりだったのが、アメリカは祝日が日本に比べて格段に少ないという事です。私企業が一斉に休みになる祝日は年間10日ほどしかありません。もちろん、会社や業界によっては独立記念日やサンクスギビングやクリスマスの週が休みになるところもありますが、基本的にそうするには各自の有給を強制的に使わされます。日本のお盆や正月休みのように有給使わずに丸1週間休めるわけではありません。
その有給も年間10日が基本です。社歴が長くなればなるほど有給日数が増える企業が多いですが、最低でも5年働いて初めてもう5日増えるとかです。
日本ではよく”欧米人は1ヶ月やそれ以上休みを取ってバケーションに行く”というイメージがあるかもしれませんが、恐らくそれはヨーロッパだけの話でしょう。アメリカで有給がたっぷり残っている場合でも1ヶ月も職場を空けると、もう帰ってくる頃には誰か他の人に仕事を奪われていると思った方が良いですね。
これは、残念ながらマタニティー休暇にも言える事です。日本では女性の職場進出を促進するため、1−2年のマタニティ休暇を取るのが普通になっているようですが、アメリカの女性でそれをするのは、出産後あまり職場復帰を真剣に考えていない場合のみですね。そもそも大抵の大企業であっても有給マタニティリーブは精々3ヶ月ほどで、それ以降は給与が半減または無給になります。ですので、アメリカ人女性は出産後1週間もしないうちに職場復帰するのが普通です。しかも、そうなると赤ちゃんをデイケアに毎日預けることになるのですが、このデイケアがまたびっくりするほど高額(州によるが最低でも子供一人月1000ドル)!!だから、アメリカでは二人目の子供ができたら夫婦どちらかが仕事を辞めて、一人が通学年齢になるまで子育てに専念するのが通例です。

今、日本では女性の社会進出に伴って、保育園不足が問題になっているようですが、私が考えるに、それは保育園代が格安だからだと思います。女性の平均月給手取りほどの金額を保育園代で毎月持って行かれたらこういう問題にはならないでしょう。それも1−2年のマタニティ休暇後の話でしょうから、アメリカ人女性に比べて、日本人女性は割と恵まれていると思います。

しかも、アメリカ社会では、皆さんご存知のように医療費が恐ろしいほど高いので、出産にも保険によっては数十万円くらい自腹になります。出産後も検診などでかなり高額医療費がかかりますし。おまけに、教育費も日本に比べて破格になります。学校だけでなく、習い事もかなりお金がかかる上、特に、大学は海岸沿いの物価の高い州を除く州では家が余分に1件建てられるほどの学費になります。

上記の理由で、アメリカ人で、特に子供がいる人は既婚・未婚を問わず、真面目に毎日働かざるを得ない、という事です。巷で聞く話、アメリカで子供が一人でもいて大学まで行かせたい場合は死ぬまで働かないといけない(定年退職は諦めろ)と皆言っています。

私は以上のような状況を夫婦でじっくり考えて、子供は作らないことにしました。おまけに、アメリカではまだまだ出産率が移民を中心に増加傾向ですので、少子化の問題もありませんし。

少し話が脱線してしまいましたが、ここで、また、アメリカの職場の話に戻したいと思います。
アメリカで就職・転職を考えておられる日本人は多いと思いますが、一つ重要なことを言いたいと思います。ズバリ、”アメリカ社会は日本社会以上に学歴・コネ社会だ”、ということです。どういうことかと言うと、例えば、日本だと学歴社会ではありますが、就職時に問われるのは大卒かどうかと大学名くらいでしょう。大学での専攻内容と職務内容が合致していない部署に配属になった、と言う話はいくらでもあると思います。アメリカではこれはほぼあり得ません。アメリカでは、大卒かどうかや大学名(全米ランク)が重要視されるのに加えて、大学での専攻内容が応募する職務内容ときっちり合致しないと書類選考でさえ却下になります。つまり門前払いです。最近はMBAを取得している人が増えてきていますが、MBAも社会人経験を経た後、有名な大学でMBAを取得していなければ意味がないと見なされます。よって、何でもかんでも大学・大学院の学歴があれば良いと言うわけでは決してありません。このルール(大学専攻と職務の一致)はH1bビザの申請でも要件に入っていますので、皆さんも大学で何を勉強するかは将来の仕事のことまで延長してよく考えて決めることをお勧めします。ちなみに、大学で文系学部を専攻した人はLiberal Arts系と呼ばれ、近年では”無駄な学歴”と言われています。私は正にこれにすっぽり当てはまっています。だから、転職では未だに苦労します。労働市場に存在するπの数が理数系に比べて圧倒的に少ないからです。それに対して、理数系はSTEM系(Science, Technology, Engineering, Medicine)と言われ、全米で引く手が数多で、グリーンカードや市民権(アメリカ人)でこの学歴があれば一生仕事に困ることはないでしょう。正に一生安泰ということです。だから、最近の若者はこぞってSTEM系の大学専攻に進んでいますね。

日本では、恐らく、”大学では自分の学びたいことを専攻すれば良い”という考え方でしょうが、アメリカでは”高額の学費払うんだから将来なるべく金持ちになれる専攻を選ばないと無駄”という考え方です。特に、近年は、インドや中国からいくらでもSTEM系の人材がアメリカにこぞって押し寄せているので、余計にこの理論が当てはまります。
逆に言えば、文系の人間はアメリカ社会でかなり肩身の狭い思いをします。

しかし、文系の人間でもチャンスはあります。ズバリ、”コネ”です!コネと言うと、日本社会では”ずるい”とか”裏口”とか言うイメージがありますが、アメリカではコネ(人脈)=ネットワーク力と見なされ、要はコネ力も実力のうちです。そもそも多人種多民族が入り混じった社会で自分に有利なコネを築くには相当な努力と行動力が必要です。また、強力なコネを手に入れるには、自分のプライドを押し殺して、相手をヨイショする能力やスキルも必要になります。だから皆が皆、コネを掴められるわけではありません。
これはアメリカで複数の企業を渡り歩いた経験から実感したのですが、アメリカ社会で上へのし上がるには、この”コネ力”が一番重要です。もちろん、それなりの実力・学歴は最低条件として必要であるには違いないですが、この”コネ力”に勝るものはありません。コネ力が10で実力が5レベルの人と、コネ力が5で実力が10レベルの人がいたとすると、前者が勝つと私は思います。特に、米国企業で働いていた時にこれを目の当たりにしました。誰か知り合いや友達がその会社の上層部に就くと、その人のコネに繋がった人がぞろぞろと芋づる方式のように社外から引き抜きされて入ってくるのです。社内でももちろん引き抜きはありますが、社外からの異動の方が多いですね、私の経験では。反対に、そのような上層部の人が会社を去るとそのコネに繋がった人も去ってゆく、と言うね。コネ人脈の大移動ってなところでしょうか?!

では、”どうやってアメリカ社会でコネ力をつけるか=ネットワークを広げるか”ですが、実はこれは私も今だに苦戦している課題でもあります。なんせ、日本で生まれ育ったので、自分の私利私欲のために尊敬もできないような上の人にお世辞言ったり、ヘコヘコするのに慣れていない=苦手なもので。このため、自分にとってとても尊敬できないような上司(せこいタイプの人間)にはあまり好かれませんでしたね。その端で、相手構わず上の人間に媚びへつらうことを何とも思わない同僚がどんどん依怙贔屓されて出世していくのを見てきました。そうです、米国企業では依怙贔屓は当たり前です。それはそれでその人の人生だから私には関係ないですが、少しそう言う人から学ぶ要素もあります。それは、要するに”コミュニケーション能力”です。同じことを言うにも言い方ひとつで随分と相手の受け取り方や自分に対する感情が違ってくるもので・・・。こう言う人の言い回し(もちろん英語)や表情・仕草をなるべく取り入れるようにしました。ただ、自分を押し殺すのはなしで。もう一つ気づいたのは、こう言う社内で強力なコネを持つ人は、プライベートでも上の人と会って時間を過ごしていることが多い、と言うことです。アメリカでは職場の人とホームパーティをするのは普通ですが、それだけでなく、プライベートで旅行や飲みに行く(飲みニケーション)ということをやっている人が多いですね。恐らく、こういう人はプライベートの時間を犠牲にしてでも上の人と関係づくりをして、上司と部下というより友人関係になっているのです。これをやられては、私は太刀打ちできませんがね。私はプライペートとビジネスはきっちり分けたい方なので。

あと、ネットワークを広げたい人は、教会やコミュニティーやボランティアの集まりに属すると言う手もあります。教会へ行くと、不動産屋や弁護士や自営業者をよく見かけます。彼らにとって、教会は将来の顧客が集まる宝庫だからです。こういうと、宗教を私利私欲に利用していると思われるかもしれませんが、私に言わせてもらえれば、教会(キリストしか知りません)の運営者自体が、信者というメンバーから寄付というメンバーシップ料を徴収して成り立っている”ビジネス”に過ぎないので、持ちつ持たれつではないかと思います。

ということで、アメリカ社会で働くには、実力・学歴もそこそこつけて、あとはコネ力がかなり肝心になるという考えで間違いないと私は思います。

どこかの調査データによると、転職回数が多いのが普通のアメリカ社会ですが、その転職の大半はコネによるもの(知り合いからの引き抜き)らしいです。しかも、アメリカでの転職は、前職より次職の給料の方が高いのが普通ですから(そうでないとアメリカ人は転職しない)、コネのおかげで収入もアップというわけです。

いや〜、本当にコネ力のある人は羨ましいですね。

今回はここまでにします。
ご覧いただきありがとうございました。

2019年10月15日火曜日

マイアミからミシガンへ2日間の引っ越しロードトリップ

前回の投稿では、マイアミでインターンの職が無くなって、全米引っ越し可を条件に転職活動をした結果、運よくミシガンの会社に採用されたお話をしました。



今回は、その後直ぐに、自家用車を使って、2日かけたミシガンへの引っ越しのお話です。




正式な採用オファーを受け取った後、なるべく早く働き始めて欲しいと言われたため、その2週間後くらいに引っ越ししたと記憶しています。
引っ越し荷物と言えば、渡米の際に持参した2つのスーツケースと、日本から船便で郵送した段ボール箱2つ分しかなかったため、引っ越し業者は使わずに、自分で自家用車に家財道具や衣類をパンパンに隙間なく詰め込んで引っ越しすることにしました。

書店で買ってきたB4版くらいある全米の地図帳を開いて経路を蛍光ペンで辿って、各ページに渡って付箋を付けて、きっちりイメージトレーニングして当日に臨みましたね。私の作戦は、途中で一泊して2日のロードトリップです。1日目はできるだけ行けるところまで行って、体力の限界になったらその近くのハイウェイ沿いでホテルを探して一泊して、2日目はなるべく楽なドライブになるよう、また夜遅くなる前に目的地に到着することを目標にしました。目的地は、前回の巻でも少し述べていた、Roommate.comで見つけたルームメイト募集相手のアメリカ人女性のお宅です。この女性はスーザンで、私より8歳くらい年上の独身女性で一軒家を所有しているキャリアウーマンです。いわゆるオーナーとのシェアハウスと言ったところでしょうか。



さて、引っ越し初日ですが、朝8時頃にホームステイ先を出発し、その後、I-95という東海岸を縦断するハイウェイに乗って北上し、途中で有料道路のターンパイクに乗ってオーランドあたりまで行き、そこから今度はI-75というハイウェイに入ったと思います。それで、出発から7時間後位にやっとフロリダ州とジョージア州の州境に到達したはずです。フロリダって南北に随分長いんだと気付いたのもこの時でした。それからアトランタ市内で夕方のラッシュアワーの渋滞にはまった後、ひたすら北上し、ジョージア州は3時間くらいで抜けて、テネシー州に突入した時は既に辺りがうす暗くなっていました。それでもまだもう少し走ろうと思い、そのまま突っ走るとあっという間にテネシーの山間部に入っていました。流石に山間部に入るとあまりホテルなど数少なくなってきたので、そろそろヤバイかなと思い、夜8時半過ぎにChattanooga(チャタヌーガ)という山間の街で高速を下りて、ハイウェイの直ぐそばにあったモーテルに宿泊しました。このモーテルが凄く雰囲気が暗くて怖かったのを覚えています。確か、宿泊料は35ドルくらいだったはずです(安すぎ!)。このモーテル以外は近くに宿泊できそうな場所がなかったので、仕方がありません。とにかく、風呂とベッドがあれば十分です。夜ご飯はこの日は抜きでしたね。疲れすぎて、食べたい気分ではありませんでした。
このモーテルに到着した頃にちょうどフロリダのホストファーザー(ピーター)から電話がきました。出発するときに宿泊場所に到着したら電話すると言ってあったのに、なかなか電話が来ないから心配していたようです。ピーターに”チャタヌーガでモーテルに到着したところ”と説明して、電話を切った後、さっさとシャワーを浴びて、速攻ベッドに入りました。寝る前にその日の1日を振り返りながら、”ここは一体どこ?!”みたいな気分になったのを覚えています。モーテルの雰囲気も悪いし、全然知らない場所だし、不安になりながら寝落ちしたように思います。ということで、1日目は合計約13時間のドライブでした。

翌朝、目覚ましで目覚めるとさっさと身支度をして速攻でそのモーテルを後にしました。テネシーの山間部はスモーキマウンテンと呼ばれるだけあって、霧がかかっていました。それでも天気は良かったと記憶しています。朝ごはんは抜きで、とりあえず、山間部を抜けようと思い、ハイウェイにのって、テネシーを一気に抜けて、ケンタッキー州に突入!ケンタッキーは山というより小高い丘がいくつも連なったのどかな田舎という雰囲気でした。ハイウェイの左右には牧場が広がっていて、芝がどこまでも続いていました。途中で、ガソリンスタンドで給油したついでに食料を買って食べて、速攻またドライブ再開。とにかくこの繰り返しでしたね。テネシーとケンタッキーは東西に長いからか、3〜4時間くらいでオハイオ州に入ったと思います。オハイオのCincinnati(シンシナティ)という南端の街に入ったら、大きな川があって、ハイウェイが鉄橋になっていたのを覚えています。そこから、また南北に長いオハイオ州の農場のど真ん中を走るI-75を北上して、午後3時頃にはミシガンに到着!そこからスーザンの家は1時間強くらいだったので、4時半頃にスーザン宅に到着したはずです。到着した時は、まだスーザンが仕事から帰宅していなかったので、ドライブウェイでしばらく待っていると、スーザンが帰ってきました。しかし、そのことを電話で伝えていなかったので(夕方頃までに着くとは言っていたが)、スーザンはドライブウェイで待つ私が怪しい人と思ったらしく、びっくりしたと後で言っていました(笑)。結局、2日目は合計で、8時間くらいのドライブでした。総走行距離にして、約1400マイル(2240キロ)の1泊2日の引っ越しロードトリップとなったわけです。

それから、無事にスーザンと再会の挨拶をして、スーザンが家の中を案内してくれ、私の部屋も見せてくれました。無事に目的地に到着できてやれやれというところでしたね。出発の時は暖かいマイアミだったのに、翌日はまだまだ寒い3月半ばのミシガンに到着。改めて、アメリカは広いと実感しました。

次の巻では新しい仕事での話と、H1bビザのお話をします。
今回も長文おつきあいいただき、ありがとうございました。

2019年10月11日金曜日

渡米後わずか3カ月内にまさかの危機!

前回の巻末で、”次はまさかの事態が勃発”と意味深な発言で締めくくりましたが、今回はそのお話を詳しくしていきます。



渡米後2カ月ほどして、ようやく念願のマイカーを入手した私でしたが、マイカー通勤になって、喜んでいたのも束の間、この数週間後にとんでもない事態になってしまいました。



ズバリ、インターン先のオーナー上司が、”インターンもういらない”と言い出したのです。
しかも、前述の通り、この上司はほとんど本社機能のあるジャマイカにいたので、私に直接会ってそう伝えたのではなく、電話でだったと記憶しています。
こうなってくると、非常にヤバイのは自分でも直ぐにわかりました。なぜなら、インターンの仕事がなくなると同時にJ1ビザが失効してしまうからです。この状況は上司もインターン斡旋業者から聞いていたようで、元々18カ月の予定でインターンとして雇った手前、満期の遥か前に一方的に解雇するのは約束違反だとでもその業者に言われたのでしょう。それにあちらも少し分が悪いという事は実感していたのか(日本からわざわざ若い日本人女性を呼んできたのですから)、とりあえず、直ぐには解雇にはしないけど、次のインターン先を自分で探し始めてそれが見つかるまで解雇は待ってくれる、という条件が出されました。この上司の心変わりの原因は、どうやらうまくいくと思っていたビジネスのアメリカ進出話が頓挫してしまったという事でした。某総合商社と組んでアメリカへジャマイカコーヒの輸入をしようとしていたのがボツになった、というような話を聞かされたのを覚えています。それで、私が一人で店番していたマイアミ事務所は必要でなくなったと。早い話が事務所閉鎖という事だったのです。



理由は私にとってはどうでもよかったのですが、とにかく転職活動を始めなければなりません。しかし、その時点で、渡米してわずか2ヶ月強。しかも日本人や日系企業が全米でもかなり少ないマイアミ近郊。この地域では、スペイン語がネイティブレベル話せない人はアメリカ人であっても、自営業する以外ほとんどまともな仕事に有り付けないのです。スーパーやコンビニの店員でさえ、スペイン語能力が必須です。スペイン語は一応大学でポルトガル語を専攻していたのもあり、少しは嗜んでいたけど、ネイティブレベルには程遠い。しかもインターンという微妙な立ち位置だったため、J1ビザの雇用者切り替えや、のちの就労ビザスポンサーの可能性も確認しなければならない。また、当時はインターネットで転職活動というのが主流ではなかったため、とりあえず、近郊にある日系企業やその他日本と関わりがありそうな会社をインターネットで調べて、住所やFAX番号を書き留めて、履歴書を送りまくりました。結局、マイアミ郊外の日系企業(物流系)とアメリカの物流会社から面接に呼ばれて行ったものの、ビザのスポンサーは無理とのこと。だったら、最初にそれを言ってくれと言いたいところだったが、ぐっとこらえて、諦めて直ぐに退散。直ぐにマイアミではもう可能性がないということに気づき、今度は全米場所は関わらずLAからNYまで色々な会社に履歴書とカバーレターを送付しまくりましたね。
そうすると、NYにある日本人が経営している小さな製造企業のオーナーさんから電話面接を受け、いろいろこれまでの日本での経歴やアメリカでの経験を話したところ、すごく気に入ってくださったのですが、J1ビザの切り替えはいいけど、その後の就労ビザ(H1bビザ)のスポンサーは金銭的にできない、と言われました。ここでもまた撃沈・・・(笑)




結局、自分で会社を見つけては履歴書を送るという作業を1ヶ月は続けたと思います。そうすると、アメリカではすでにクリスマス直前、いわゆるホリデーシーズン真っ只中になってしまっていたので、全米のほとんどの会社は半分開店休業状態。こんな時期に採用活動をする企業はほとんどありません。ということで、しばらく私も転職活動は中止となり、せっかくなので、アメリカのホリデーシーズンを楽しむことにしました(完全に開き直った状態)。余談になりますが、ホストファミリーのご近所さんがSimple Planという全米でもその頃大人気だった(今でも人気?)男性バンドのメンバーの一人のご両親だったようで、バンド全員がそのメンバーの実家へ大晦日に里帰りしたついでに実家の目の前で路上コンサートを開いてくれたのを覚えています。これぞ、アメリカならではの体験。



さてさて、年が明けて、私は全米を股にかけた(言い方偉そうだけど)転職活動を再開させました。この時からやり方を変えて、アメリカの日系人材派遣会社(リクルーター)に助けてもらうことにしました。まずリクルーターと電話面接して経歴や現状を説明して、最初に勧められた日系企業に応募してみることにしました。この時点で、リクルーターに今後どうしたいのか自分なりの将来計画を就労ビザのニーズとともに説明しましたね。具体的には、出来るだけ少なくともJ1ビザが失効するまでインターンで働いて、その後はH1bビザのスポンサーになってくれる企業を希望しました。
そうすると、その応募した日系企業から電話面接の依頼が来て(面接官は日本人男性)、無事に電話面接も合格して、次はいよいよ現場での面接となりました。そうです、この企業が私がミシガンにやってくる理由となったのです。ミシガンでの面接のため、自分でマイアミからの航空券を予約して購入しました。電話面接の1週間後くらいが面接日だったはずです。マイアミに18ヶ月住むつもりだった私は、冬用のコートを日本から持ってこなかったため、慌てて、南フロリダには数少ないコート屋さんへ言って一番長い暖かそうなコートを買いました。時は2月半ばでしたが、ミシガンはまだ10度以下の毎日だったからです。デトロイト空港に着くと、面接官の日本人男性が空港まで迎えに来てくださいました。業種は国際貨物を取り扱う物流会社です。面接での話では、日本人で、既にアメリカに住んでおり、日本でも会社員経験があって、しかも極寒のミシガンまでやってきてくれる在米日本人はあまりいないので、いつも採用に苦労しているとのこと。そういう意味では、私は日本で4、5年社会人経験があって、日本企業文化にも慣れているし、日英バイリンガルだから、ということで気に入ってもらえたようです。本当にマイアミみたいな温暖な所からミシガンみたいな気候が悪いところへ引っ越しできるのか数回確認されたのを覚えています。結局、面接はすんなり合格し、J1ビザの切り替えとH1bへの切り替えスポンサーも面倒見てくれるということで、こちらとしても願ったり叶ったりになりました。


この後、同日中に前もってRoommate.comというルームメイト募集サイトで検索して見つけていた面接企業の近郊に住むアメリカ人女性のお宅へ下見に行き、翌日、マイアミのホームステイ先へ戻りました。
ホームステイ先へ帰ると、ホストペアレントにも、ミシガンみたいな気候が最悪の所に行きたいのか何回か確認されましたね。その時私が言った答えは、”私にはもうこの選択肢しか残っていない”、でした。本当に、もう日本へ尻尾巻いてわずか6ヶ月で帰国する以外は、この道しかなかったのです。気候が悪かろうがどうでもよかったのです。

もちろん、18ヶ月いれると思っていた南フロリダを離れるのは寂しかったですが、これからまだアメリカで可能性があるのがわかって一気にテンションが上がった私でした。




次回は、マイアミからミシガンへ、マイカーで2日かけた引っ越し旅のお話をします。
今回も読んでくださってありがとうございました。

2019年10月10日木曜日

人生初のマイカー購入

前回の巻では、マイアミへ住み始めた直後のお話でしたが、今回は、その後のお話をしたいと思います。

まずもって、アメリカのごく一部地域を除いて生活に必要不可欠となる、車の入手について、経験談をお話しましょう。
前回でお話した通り、私は渡米直後はマイカーがなかったので、ホストマザーのマウンテンバイクが通勤の足でした。毎日チャリンコで行き来する私を見かねたホストファーザー(ピーター)が、”あんた、車いつ買うの?”と聞いてきたので、”なるべく直ぐに買いたいのだけど、どうやって品定めすれば良いかわからない”、とか言ったように思います。この時点で既に、11月くらいだったと思います。渡米から2ヶ月ほどですね。
そこで、ピーターが週末に車を見に連れて行ってくれると言ってくれました。とりあえず、当時は中古車買うならスーパーなどに置いてある無料の車セールス雑誌を見て検索するのが主流だったので(オンラインはまだまだ流行っていなかったはず)、何冊か入手してある程度の目星は自分で付けました。新車は?いやいや、貧乏だったのもあり、この時点で新車は全く考えてなかったですね。

で、早速、次の週末に取り敢えず、中古車なら、ディーラーで取り扱っているCertified Preownedというある程度保障付きの中古車がいいというピーターの勧めで、近くのフォードのディーラーへ連れて行かれました。ちなみに、ピーターはクライスラー乗ってたのに、なぜか、フォードだったという(笑)。
店に入ると、典型的なカーセールス員的な、白人の中年男性が商談相手だったのを覚えています。色々中古車を見せてくれ、試乗もさせてくれたのですが、これが、なかなか値段を言ってくれない。数車試乗を終えて、ピーターにメカ系を一応チェックしてもらって、またオフィス内へ戻ってきた時点で既に1時間以上は経ってたような記憶があります。で、色々セールスの親父の長々した早口話を適当に聞きながら値段をやっと言ってくれたのですが、まぁ、これがびっくりするほど高い。ピーターもこりゃあかんと思ったのか、”まだここ最初に立ち寄った所だからまた戻ってくるかもね”、とか適当なことを言って、逃げるようにそのディーラーを後にしました。

まずここで、勉強になったのは、アメリカでは、中古車が意外と高く売れるということです。多分、日本の平均額より高いと思います。当時はリースがまだ今ほど主流で無かったので、毎回新車を買える中間所得者は多くはないので、中古車の需要が高いんだと思います。

この後、2件ほど個人的に売られていた中古車をピーターが見つけてくれ、見にいきましたが、一つはやはり値段が高い割にメカが怪しいし、もう一つはかなり古い型で値段は良かったけど、直ぐに故障しそうな感じでやめました。
この次の週末に、無料雑誌で見つけた、個人経営の中古車販売店へ行くことにしました。場所はマイアミ市内でも結構治安が怪しいところだったので、もちろんピーターについてきてもらったのですが、ドキドキでしたね(今となればマイアミの治安なんてデトロイトと比べればどうってことないのですが)。で、ここで見つけた車が意外に値段も安く、見た目も割と綺麗で6年物くらいだったので、即決しました。忘れもしない、ポンティアックのサンファイヤー(緑色)という’97モデルです。値段は2600ドルくらいだったはずです。
ただ、速攻乗って帰るには、自動車保険証明やら、キャッシャード・チェック(Cashiered Check)といって現金化した小切手で支払う必要があったため、その場でデポジットだけ払って、数日後に出直すことにしました。
アメリカで、車など高額商品を購入する際は現金かこのキャッシャード・チェックで支払うのが主流です。特に個人店や個人から車買うにはローンを組んでもらえないのでこの支払い方法がほとんどですね。クレジットカードや普通の小切手だと、支払った後に支払人が支払いをキャンセルできるので、売り手としては騙される可能性があるからです。ここで、やはり前回の巻でお話した通り、現地で速攻銀行口座を開設してある程度の残高を保って置くことが重要になります。ちなみに、キャッシャード・チェックを発行してもらうには通常手数料を取られますので、ご留意を。

さて、その2、3日後、ピーターが仕事から帰宅してから、自動車保険の証書とキャッシャード・チェックを持ってデポジットを払った車を引き取りに行きました。店に行くと、既に店主が仮のライセンスプレート(紙切れに番号を手書きしたもの)を用意してくれており、支払いと保険証書を確認して書類にサインしてから車の鍵をもらって、店主と握手して”おめでとう”を言ってもらって、いざ出陣!
帰りはピーターに先に走ってもらって、私がその後から買いたてのマイカーでそろそろついて行ったのを覚えています。嬉しさ半分、ドキドキ半分のドライブでしたね。

これで晴れて、私もアメリカで初めてマイカーオーナーとなりました。
もうね、自家用車があると行動範囲が何十倍にもなるので、日常生活が一変するんですね。その上、時間を気にせず行動できるので、気持ち的に随分楽になったのを覚えています。
この車で、調子に乗って、毎日いろんな店やら図書館や銀行やビーチなど色々時間の許す限りうろうろしました。もちろん、通勤もですけど(笑)。

ちなみにですが、この中古車はこの2年後、ミシガンで他人に売りましたが、なんと、2000ドルで売れました!2年間乗ってわずか600ドルの出費です。後から知ったのですが、マイアミなど雪の降らない地域は、ミシガンなどの極寒地域と違って冬に凍結防止の塩を道路にまかないため、車体の下に錆がつきにくいということで、ミシガンで売る際に錆なし中古車としてかなり価値が上がるそうです(ミシガンで利用された車はものの1、2年で錆だらけ)。ですので、中古車を買うときは車体の下に錆がないかよくチェックすることをお勧めします。

ここで、マイカーを入手して意気揚々と過ごしていた11月頃ですが、この直後にとんだ事態が勃発します。この続きは次の巻でお話します。

今回も読んでくださってありがとうございました。次回もよろしお願いします。

2019年10月9日水曜日

さて本番!渡米後の生活開始 私のアメリカ 移住 方法の解説

最初の投稿で、私の自己紹介と共になぜ私がアメリカへ移住することにしたのかの経緯を説明しました。

さて、ここから私の渡米後の新生活の始まりです。

2003年9月11日にマイアミに降り立った私は、住居探しをする間、前もって予約してあった長期滞在用のホテルに向かいました。インターン先の日本人上司がホテルまで連れて行ってくれ、ホテルに着いた数日後に東京で知り合ったアメリカ人の友人のツテで、とある一般家庭にホームステイ(下宿)させてもらえそうだという連絡が来ました。

東京でキリスト教会に通っていたのですが、その教会の支部がマイアミ近郊にもあり、そこの信者のご家庭だったのです。結局、ホテル滞在は1週間ほどで切り上げ、ホームステイ先へ引っ越しになりました。
ホームステイ先はマイアミのすぐ北のフォートローダーデール郊外の閑静な新興住宅街でなかなかの豪邸で、そこの一番小さい子供のプレイルームに寝泊まりすることになりました。お子さんは10歳と16歳の女の子で、まさにアメリカの思春期真っ只中という感じでしたね。いろんな意味で勉強になりました(笑)。



仕事始めですが、まずもって車通勤が普通の地域で車がない、という大問題に直面。中古車買うくらいの貯金はあったのですが、免許証などの問題ですぐには購入できないので、ホームステイ先のお母さんのマウンテンバイクを借りて通勤することになりました。車で10分弱くらいの距離でしたが、行きは緩やかな坂道で、そこは常夏の南フロリダ。片道30分くらいかけて汗だくになりながらひたすら自転車を漕ぐ毎日。途中でスコールが降ってきたり、トカゲが道にウヨウヨ出てきたり・・・なんてのにはすぐに慣れ、おかげで健康にはなりましたけど、大変でしたね。


仕事内容は、コーヒー豆をジャマイカから輸入しているジャマイカに本社を置く会社だったのですが、今回マイアミ近郊に初めて米国オフィスを立ち上げるということで、そこで一人で店番よろしくオフィス事務をすることになりました。上司は日本人男性でしたが、ほとんどジャマイカにいたので、オフィスではほぼ一人ぼっち。オフィス用品やら商品の発送などで近くのお店に行って購入したり、ビジネスアカウントを開設したり。正直、思っていた仕事内容ではなかったですが、なんせアメリカで勤務したことがなかったので、こんなものかな、くらいにしか感じていなかったですね。一応、有給のインターンだったので、月1000ドルほどもらっていましたが、ホームステイではなく、普通のアパートに住んでいたらこれでは生活できなかったと思います。本当にホームステイ先の方のおかげでしたね。




私生活ですが、まず何と言っても最初の登竜門は、ソーシャルセキュリティー番号を取得することです。ソーシャルセキュリティ番号は日本でいうマイナンバーです。これが命の次に大切になる超大事な個人情報です。アメリカで就労ビザを取得した人は皆ソーシャルセキュリティ番号を取得することができます。これを取らずに働くと、所得税が収められないため、不法就労になります。学生ビザのまま、学校や政府に内緒でアルバイトしている人はいっぱいいると思いますが、そういう人は収入はPayment under the Tableといってこっそりキャッシュで受け取ることになり、それが見つかって国外追放になることもありますので、ご注意を!このソーシャルセキュリティ番号は銀行口座開設や免許証取得にも必要になってきます。ですので、渡米後はなるべく早めに近くのソーシャルセキュリティオフィスへ出向いて申請することをお勧めします。申請は予約なしで朝から列に並んでできます。場所にもよりますが、私の場合は、申請書を記入して提出した後、数時間以内に面接に呼ばれ、オフィス内で面接官に仕事やビザの照会をしてもらって、その場で合格を言い渡され、数日後にソーシャルセキュリティカードが郵送されてきました。

ソーシャルセキュリティカードが手に入ると、直ぐに地元の免許書センターである、Secretary of Stateのオフィスへ出向いて、日本から持って行った国際免許証とソーシャルセキュリティカードなどを提出しました。これも私の場合ですが、日本で既に免許は取っていたので、アメリカで取る免許はあくまで書き換えになります。これもフロリダ州の当時の話ですが、テスト会場へは自前の車で乗り込む必要があるため、車を所有していない私はわざわざこのためにレンタカーしました。ほとんどのアメリカ人は家族や親戚の車を借りていくようですが。日本では考えられないですよね。テストに関しては前もって、筆記テストのテキストを入手して(ホームステイ先のお子さんがちょうど免許取る歳だったためテキストのコピーをもらいました)、予め勉強しておいたのを覚えてます。書類提出後その場でしばらく待っていると、筆記テストを受けるよう言われ、コンピューターで筆記テストを受けた後、合格が通知されると、そこでさらに数時間待った後、敷地内のコースで実技テストを受けました。実技テストは日本のそれに比べると楽勝でした。”え、こんな簡単なテストでいいの?!”というレベルです。日本で厳しい試験を受けて免許を取った人のほとんどは楽勝だと思います。テストには試験官が同乗して、最後に車内で合否が言い渡されます。私は日本でペーパーでしたが、問題なく一発合格でした。これで、晴れて即日フロリダ州の免許証を取得することができました。




次にやらなくてはならないことは、銀行口座開設です。前述の通り、これにもソーシャルセキュリティカードと移民ステータス書類が必須になります。あとは日本の口座残高証明も持って行ったほうがいいですね。私は銀行員ではないので、詳しいことはわかりませんが、自国にお金があり、それをいずれ米国銀行へ送金する予定だとか言えばより簡単に審査に受かると思います。私は当時Bank Of Americaに銀行口座を設けました。なるべく全米に拠点がある銀行の方がいいと思います。とりあえず、普通のChecking口座を開いたら、もう一つ重要なのが、アメリカ発行のクレジットカードを入手することです。日本発行のクレジットカードでも使えることが多いですが、オンラインショップやガソリンスタンドなどでは、米国発行のカード以外は使えないことがあります。ただ、ここで、渡米直後の外国人が突き当たる壁はクレジットヒストリーが皆無ということです。要は、個人の信用度です。クレジットヒストリーは、米国内でクレジットカードを使ってきっちり毎月満額を支払うか、大きな買い物でローンを組んできっちり支払い続けるなどの行為で点数が加算されていきます。しかし、アメリカに住んで数日の人はまず持って、ローンが組めないので、クレジットヒストリーを貯めるチャンスは限りなく少ないわけです。ここで、唯一と言って良い方法が、銀行口座を開設した後、その口座にリンクさせたSecured Credit Cardを取得することです。あとは車のリースをしてきっちり支払い続けるという方法もありますが、ヒストリーが無い場合リース率がかなり高くなりぼったくられますので、あまりお勧めできません。Secured Credit Cardというのは、予め利用限度額が決められていて、その金額までしか毎月クレジットカードが利用できなくなっており、毎月請求金額を支払い続けると、クレジットヒストリーが溜まっていきます。私は、これを利用して、数百ドル限度付きのSecured Credit Cardを2年ほど利用し続けました。




以上が、私が渡米後1ヶ月以内に行った諸手続きです。私の場合、なんせ単身だった上、職場の上司もほとんど不在で頼れない(ソーシャルセキュリティ番号申請のみは仕事関連だったので上司に付き添いしてもらったものの)、唯一頼れる相手といえば、ホームステイ先のご両親のみだけど、やはり既に住み込みさせてもらえているだけで結構なご好意なのであまり彼らに頼んでばかりはできない、と色々大変でしたが、持ち前の根性と独立精神でなんとか切り抜けることができました。




さて、次の巻では、渡米2ヶ月後に行った、中古車購入などについてお話ししていきます。今回も読んでいただいて、有難うございました。次回もよろしくお願いいたします。


2019年10月8日火曜日

まずは改めて自己紹介

こんにちは。初めまして!アメリカはミシガン州に在住15年以上になりました、ヤスコと申します。
昭和51年生まれで、22歳まで兵庫県の西宮で過ごしたので、コテコテ関西人です。今だに日本語を話す際は関西弁が抜けきれていませんね。というのも、大阪の大学を卒業した後、就職で東京へ出て、4−5年ほど会社員で働いた後、26歳の時に単身渡米したため、完全に標準語化が出来なかったんだと思います。

日本人の多くの方が恐らく、興味があるのではと思いますので、簡単にどうやって日本から自力で単身渡米の機会を得て、どういうビザを渡り歩いて今に至るのか、という内容を簡潔にご紹介しようと思います。ご興味ない方はここからの内容は飛ばしてください。


まずは、遡ること2003年です。大学生の頃から(外国語大学へ行ったということもあり)いつか海外で働いて暮らしてみたいという思いがあったのですが、この年に一念発起することにしました。時は就職氷河期真っ只中でしたね。そもそも就職も辛うじて何とか出来たものの、就職してからも大不況は続き、所謂ワーキングプア状態が続いていたと記憶しています。日本政府に全く信用や期待ができないのはもうこの時点で自分なりに悟ってました。”日本という国にはもう期待するのをやめる”と決心したわけです。将来的に明るい未来は日本には無いように感じていたんですね。まぁ、今から考えると、”ハタチ過ぎの若者に何がわかるんや”、って日本の政治家なんかに突っ込まれるやろうなとは思いますけどね。
このまま日本人として日本で一生埒が明かない人生を送るか、一か八かとりあえずダメ元で海外でやりたい事に挑戦するか、完全に人生の岐路に立っていたんだと思います。そこで、思ったのは、自分が死ぬ時に”あの時、チャンスがあったのに挑戦しなかったがために死に際で後悔するよりも、ダメ元でも挑戦して失敗して帰国する方が後悔の念は少なくなるはず”という結論に至りました。
そこで、問題になるのが、”じゃ、どこの国へ行く?”という事です。大不況でも日本は当時まだ世界第2位の経済大国だったので、キャリアアップを目指すんだったら、日本より経済的に格上の国に行くしかないだろう、と。そうなると、答えは一つしかないでしょう。そう、自分にとってはアメリカしか選択肢はなかったのです。
アメリカといえば、当時、9.11からわずか2年弱しか経っていなく、ただでさえ、厳しい就労ビザ取得が、テロの影響で余計に厳格化が激しくなっていた頃です。まずは、どうやって就労ビザスポンサーを見つけるかです。いきなり、日本にいながら米国の企業へ正社員として雇ってもらうのは無理だろうと。でも、留学する資金がない。投資家ビザを申請するほど金持ちでもない。少なからず貯めた貯金を切り崩し、何とか少額でも稼ぎながらアメリカで暮らせる方法はないかをひたすら調査しました。少額を稼げる仕事といっても、アルバイトや契約・派遣用の就労ビザなんてないので、正式に会社の一員となることができる方法です。色々検索しているうちに、”企業インターン”というキーワードに辿り着いたのです。当時は、この企業インターンというのが日本で斡旋され始めた直後だったようで、まだまだ経験者は少なかったようです。で、肝心の就労ビザですが、企業インターンの場合、大学の奨学研究者にも発行されるJ1ビザが取得できます。しかも、この場合、ビザスポンサーは、インターン先の企業ではなく、米国政府系の非営利団体(文化交流目的の団体)だったわけです。このJ1ビザというのが、その頃、世界でまだまだ知られていなかったようで、申請者数は他の就労ビザに比べて少なかったんですね。恐らく、今はもうポピュラーになりすぎて、取得しづらくなっていると思いますが。
それで、急がば回れということで、インターン先の斡旋業者に登録し、費用を入金して、1、2ヶ月後、候補先の会社と電話面接して、無事に合格した後、J1ビザの申請に移り、3ヶ月ほどして満期の18ヶ月間のJ1ビザが取得できたと記憶しています。ただ、当時、米国大使館でのほぼ全てのビザ対象の面接が始まった直後だったので、大使館もかなり混乱していて、面接予約さえ簡単に取れなかったのをよく覚えています。本番の面接は問題なく一発合格しました。結局は、渡米予定日のわずか1週間前に実家にJ1ビザが貼り付けられたパスポートが戻ってきて、ギリギリセーフでしたね。いや〜、あれはヒヤヒヤものでした(笑)。

以上で、晴れて、単身渡米と相成りました。私の中では、この時点では、どうせ18ヶ月後にビザが切れたら敢え無く帰国になるんだろうな、くらいの意識でした。それでも、アメリカで例えインターンでも企業で勤務した経験は日本で役に立つだろうと思っていたので、”掴めるものは何でも掴んでやる”くらいの勢いがありましたね。私も若かった(笑)。もちろん、掴めるものとは、人生を好転させるチャンスです。就職超氷河期世代として、日本でどうあがいても生まれ年の悪さで手に入らなかったものです。

こんな感じで、若さも手伝って、不安もそこそこ、でも意気揚々と日本脱出となりました。ちなみにですが、私が正式渡米した日は、何と、2003年9月11日、そう9.11の丸2年後でした。その日の朝、マイアミに降り立つ飛行機内で、CAが9.11が発生したのと同時刻に機内の乗客に黙祷するようアナウンスがあったのを鮮明に覚えています。何という奇遇なんだという思いと、亡くなった方への追悼の意と共に”もしかして”の恐怖感があり、気を引き締めた状態でマイアミへ降り立った日でした。

さて、すでに長文になってしまったので、これから先の就労ビザと渡米後の生活のお話は次回の巻でご説明いたします。ここまでお付き合いいただき有り難うございました。次回もよろしくお願いいたします。

コロナワクチン~モデルナ二回目接種でワクチン接種を完了しました!

 こんにちは! 先週末に遂に2回目のコロナワクチンを接種して、今回のワクチン接種を完了しました。 結論から言うと、やはり、2回目後の方が副反応がきつかったですね。 この時の動画 をYoutubeで挙げていますので、是非ご覧ください。 ただ、そのキツイ副反応も接種後24~36時間で...