ようこそ。アメリカ移住者Yascoのブログへ! 兵庫県出身の関西人。1999年大卒で超就職氷河期世代。日本での人生に見切りをつけ、2003年9月に企業インターンとして単身渡米。2003年−2004年はフロリダ、2004年からミシガンに在住。その後、数々の就労ビザを繋いで、2012年にグリーンカード取得。2017年7月に米国市民権取得により日本国籍喪失。よって、現在は米国籍のみを持つ、日系米国人1世と相成りました。波乱万丈な元日本人の人生を日本人の皆様に少しでもご紹介できればと思います。よろしくお願いいたします。

2019年10月8日火曜日

まずは改めて自己紹介

こんにちは。初めまして!アメリカはミシガン州に在住15年以上になりました、ヤスコと申します。
昭和51年生まれで、22歳まで兵庫県の西宮で過ごしたので、コテコテ関西人です。今だに日本語を話す際は関西弁が抜けきれていませんね。というのも、大阪の大学を卒業した後、就職で東京へ出て、4−5年ほど会社員で働いた後、26歳の時に単身渡米したため、完全に標準語化が出来なかったんだと思います。

日本人の多くの方が恐らく、興味があるのではと思いますので、簡単にどうやって日本から自力で単身渡米の機会を得て、どういうビザを渡り歩いて今に至るのか、という内容を簡潔にご紹介しようと思います。ご興味ない方はここからの内容は飛ばしてください。


まずは、遡ること2003年です。大学生の頃から(外国語大学へ行ったということもあり)いつか海外で働いて暮らしてみたいという思いがあったのですが、この年に一念発起することにしました。時は就職氷河期真っ只中でしたね。そもそも就職も辛うじて何とか出来たものの、就職してからも大不況は続き、所謂ワーキングプア状態が続いていたと記憶しています。日本政府に全く信用や期待ができないのはもうこの時点で自分なりに悟ってました。”日本という国にはもう期待するのをやめる”と決心したわけです。将来的に明るい未来は日本には無いように感じていたんですね。まぁ、今から考えると、”ハタチ過ぎの若者に何がわかるんや”、って日本の政治家なんかに突っ込まれるやろうなとは思いますけどね。
このまま日本人として日本で一生埒が明かない人生を送るか、一か八かとりあえずダメ元で海外でやりたい事に挑戦するか、完全に人生の岐路に立っていたんだと思います。そこで、思ったのは、自分が死ぬ時に”あの時、チャンスがあったのに挑戦しなかったがために死に際で後悔するよりも、ダメ元でも挑戦して失敗して帰国する方が後悔の念は少なくなるはず”という結論に至りました。
そこで、問題になるのが、”じゃ、どこの国へ行く?”という事です。大不況でも日本は当時まだ世界第2位の経済大国だったので、キャリアアップを目指すんだったら、日本より経済的に格上の国に行くしかないだろう、と。そうなると、答えは一つしかないでしょう。そう、自分にとってはアメリカしか選択肢はなかったのです。
アメリカといえば、当時、9.11からわずか2年弱しか経っていなく、ただでさえ、厳しい就労ビザ取得が、テロの影響で余計に厳格化が激しくなっていた頃です。まずは、どうやって就労ビザスポンサーを見つけるかです。いきなり、日本にいながら米国の企業へ正社員として雇ってもらうのは無理だろうと。でも、留学する資金がない。投資家ビザを申請するほど金持ちでもない。少なからず貯めた貯金を切り崩し、何とか少額でも稼ぎながらアメリカで暮らせる方法はないかをひたすら調査しました。少額を稼げる仕事といっても、アルバイトや契約・派遣用の就労ビザなんてないので、正式に会社の一員となることができる方法です。色々検索しているうちに、”企業インターン”というキーワードに辿り着いたのです。当時は、この企業インターンというのが日本で斡旋され始めた直後だったようで、まだまだ経験者は少なかったようです。で、肝心の就労ビザですが、企業インターンの場合、大学の奨学研究者にも発行されるJ1ビザが取得できます。しかも、この場合、ビザスポンサーは、インターン先の企業ではなく、米国政府系の非営利団体(文化交流目的の団体)だったわけです。このJ1ビザというのが、その頃、世界でまだまだ知られていなかったようで、申請者数は他の就労ビザに比べて少なかったんですね。恐らく、今はもうポピュラーになりすぎて、取得しづらくなっていると思いますが。
それで、急がば回れということで、インターン先の斡旋業者に登録し、費用を入金して、1、2ヶ月後、候補先の会社と電話面接して、無事に合格した後、J1ビザの申請に移り、3ヶ月ほどして満期の18ヶ月間のJ1ビザが取得できたと記憶しています。ただ、当時、米国大使館でのほぼ全てのビザ対象の面接が始まった直後だったので、大使館もかなり混乱していて、面接予約さえ簡単に取れなかったのをよく覚えています。本番の面接は問題なく一発合格しました。結局は、渡米予定日のわずか1週間前に実家にJ1ビザが貼り付けられたパスポートが戻ってきて、ギリギリセーフでしたね。いや〜、あれはヒヤヒヤものでした(笑)。

以上で、晴れて、単身渡米と相成りました。私の中では、この時点では、どうせ18ヶ月後にビザが切れたら敢え無く帰国になるんだろうな、くらいの意識でした。それでも、アメリカで例えインターンでも企業で勤務した経験は日本で役に立つだろうと思っていたので、”掴めるものは何でも掴んでやる”くらいの勢いがありましたね。私も若かった(笑)。もちろん、掴めるものとは、人生を好転させるチャンスです。就職超氷河期世代として、日本でどうあがいても生まれ年の悪さで手に入らなかったものです。

こんな感じで、若さも手伝って、不安もそこそこ、でも意気揚々と日本脱出となりました。ちなみにですが、私が正式渡米した日は、何と、2003年9月11日、そう9.11の丸2年後でした。その日の朝、マイアミに降り立つ飛行機内で、CAが9.11が発生したのと同時刻に機内の乗客に黙祷するようアナウンスがあったのを鮮明に覚えています。何という奇遇なんだという思いと、亡くなった方への追悼の意と共に”もしかして”の恐怖感があり、気を引き締めた状態でマイアミへ降り立った日でした。

さて、すでに長文になってしまったので、これから先の就労ビザと渡米後の生活のお話は次回の巻でご説明いたします。ここまでお付き合いいただき有り難うございました。次回もよろしくお願いいたします。

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